蕁麻疹も両腕と両太ももだけ発疹(紅斑・丘疹・小水疱)が出るところまで抑え込んで来て山場は過ぎ、あとは日々発疹範囲が縮小化していくのを見守るだけとなりましたが、腕や肩に膨疹が出来たのを痒いと掻いてしまい出血を伴いながらポロリと皮膚が剥離して傷となり、この傷の瘡蓋(かさぶた)が治りきる前にまた痒いと掻いて剥離させて傷口が拡大化を繰り返していた為、現在、両腕にはたくさんの絆創膏が貼ってあり、不気味感が半端ない(汗)。
ケイシーのリーディングでは、乾癬などの
皮膚の疾患は、腸の中の腸壁が薄くなることで、発疹として現れるという。腸は肌と繋がっており腸壁から浸透した毒素が全身を巡り皮膚疾患になると答えている。実際に、腸壁を傷めない食事に切り替え、排泄を促すことをすると肌は改善していくともいう。このように蕁麻疹は身体内部に原因がある場合もある為、試しにひまし油を飲んだところ、即座に痒みが2~3割減という劇的効果が見られたことから、これをもっと飲みやすいものにしようと羅患中のオイラが鋭意開発したのが、、、、
最強ドリンク
「あじまりかんドリンク」
(「あじまりかん」と唱えて飲む)
キャッチコピーは、、、、
「元気爆発! 翼も生えるが草も生えるwww」とはいっても、実態はオレンジジュース300㏄に
ひまし油大さし2杯、クエン酸小さじ1杯を入れたものに過ぎませんが、当然、山蔭神道の「あじまりかん」使用認可は頂いておりません(爆)。
※オレンジジュースを牛乳に変えてもOK。クエン酸でとろみがつき、飲むヨーグルトの味になる問題は飲み終えた後に口の周りにひまし油が
べっとりとつくことだすが、勿体ないのでその油は顔に伸ばして塗ってます(爆)。
まぁ、こんな感じで蕁麻疹の
封じ込めに成功しつつあったのですが、毎日塗油することの副効果として、、、、頭髪がツヤツヤサラサラになりボリューム感アップ、日々の激しい「コマネチ神業」故か両手両足の付け根の小さなイボイボが出来ていたのも綺麗サッパリ消滅。右乳首周囲や首周りの小さなイボイボも消滅と蕁麻疹になったことで逆に今迄の問題点を解決できたのはうれしい。
しかし、そんな小康状態を一気に打破する
1通のメールが金曜夕方に届いたのです、、、
内容は「メソポタミア ヴァレー」プロジェクトの企画への
参画の打診。自給自足さんブログにそのプロジェクトの詳細が書かれているとのことで、拝見したところ下記のようなものであった。
・歴史を実体験しながら自分たちでひとつの地域を立ち上げ
・家賃、食費、光熱費等の大幅な削減
・最新技術を用いる
・栃木県那須町に展開
・農業経験は不問■高度自給自足時代の夜明けhttp://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-383.html多分、詳細な内容は
説明会で明かされることになると思われますが、最新技術を導入という点が他の自給村とは異なり、エキサイティングで「攻めてるな」という印象です。
展開地は
那須、、、おおっ、これは奇遇です。古くからの読者の方なら知っていると思いますが、オイラは以前から取りつかれたようにずっと「九尾妖狐」を追っかけていましたね。で、那須には「殺生石」という草も生えない岩石ばかりの景勝地があり、実はここが九尾妖狐終焉の地でもあるのです。
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平安時代初めの鳥羽帝の時代のお話。インド、中国を荒らし回った妖怪九尾の狐が日本へ渡来、「藻の前」という美女に化身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い日本を我が物にしようとした玉藻の前は、陰陽師の阿部泰成によってその正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって、この地・那須野が原へ逃げ込んだのです。
これを知った朝廷は上野介広常、三浦介義純の両名に命じ九尾の狐を退治させました。狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づく人や家畜、鳥獣をも殺し続けたのでした。
室町時代になってこれを伝え聞いた名僧源翁和尚は、この地を訪ね、石に済度教化を授け持っていた杖で一喝すると、巨石は三つに割れ一つは会津へ、一つは備後へと飛んで行き、残った一つがこの殺生石であると今も語りつがれています。那須温泉神社境内には「九尾稲荷神社」も祀られています。■那須高原の名勝地「殺生石」は九尾の狐伝説が今も生きているhttps://www.travel.co.jp/guide/article/5420/*****************************************
さらに追い打ちを掛けたのが、この那須の北方にある
会津虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩は伊勢神宮の奥の院を探していたとき、朝熊山の金剛證寺の明星天子堂であろうと比定しましたが、ここには牛と寅の像が狛犬のように配置されて虚空蔵菩薩が祀られています。
虚空蔵菩薩=明星天子=ウシトラノコンジンなのですね。
大本が祀る「艮の金神」は九鬼家の
「九鬼(くかみ)文書」が出典元(出口ナオに降りた)ですが、大本は「ウシトラノコンジン=国之常立神」としている一方、本家の九鬼家では「ウシトラノコンジン=天之御中主神」しているのです。当初、九鬼家と大本はジョインしていたが、後に分かれたのはこの辺の解釈に原因があるのではないかとオイラは睨んでいる。実際、造化三神のうち、国常立神は地祇系(北朝)、天之御中主神は天神系(客家)を示しているのであり、北朝に繋がる大本が一方的にウシトラノコンジン=国常立神と解釈したことに客家(=天神系)出自の九鬼家がNOを突き付けたのであろう。

(実際の奥の院=ダビデの祭壇は正殿の反対側の山腹だった?)
虚空蔵菩薩は空海が修めて天才となったという
「虚空蔵菩薩求聞持法」が有名ですが、虚空蔵とはこの物質世界を作り上げている「虚数」のような世界のこと。そこには天地開闢の頃からの記憶が保存されていてもおかしくはない。
実際、虚空蔵菩薩のインド名は
アーカーシャガルバアーカーシャとは「阿頼耶識」とも「アカシックレコード」呼ばれる人類の
集合的無意識層、つまり「22」ですね。ここに空海がアクセス出来るようになり、自由自在に情報を知れるようになったのだから天才となったというわけです。
そして
日本三大虚空蔵菩薩というのが、朝熊山金剛証寺(三重県伊勢)、 村松山虚空蔵堂(茨木県東海村)、霊厳山円蔵寺(福島県河沼郡柳津町)の3つ。特に円蔵寺の虚空蔵は「柳津虚空蔵」と呼ばれますが、何故か同じ「柳津虚空蔵」と呼ばれる虚空蔵が宮城県登米市にもあるのです。これらはちょうど伊勢から艮の方角に存在するのです。

(前記事「M字開脚する魑魅魍魎」でアマビエ検索していて見つけたのが柳津虚空蔵。オイラも1度訪れたいものだと思ったばかりのところに、スグに願望が叶いそうな現実が来て非常に驚いている。)
この東北の
柳津虚空蔵は間際らしいので各々「会津柳津虚空蔵」「宮城柳津虚空蔵」と区別されて呼ばれていますが、何故、同じ「柳津」という名称を使っているのかといえば、伝承によると百済から渡来してきた「柳津衆」という勢力が各地に虚空蔵菩薩を作っていったからなのだという。山口県柳井市にも虚空蔵菩薩がありますが、ここは元は「柳井津」と呼ばれたところ。また岐阜にも柳津(やなつ)という地名があり、ここには虚空蔵菩薩はありませんが、この「柳津」という言葉には「2つの河が交わったところ」という意味があるらしいのです。確かに柳津のある地は川があり、交わったところにありますね。
虚空蔵菩薩の使い(眷属)は
うなぎですが、ウナギは海で産卵し、稚魚が川に入り、上流をめざす。ただ登るという能力においてウナギは突出している。途中に滝があれば大抵の魚はそれ以上登ることができないが、ウナギは滝を登る事もできる。急流をさかのぼる遊泳力はないが長い体で石の間に入り、あるいは濡れた石の面を這うようにして上流へと移動する。日光中禅寺湖に生息するウナギは華厳滝を遡って来たものと推定されているほどです。さらに雨が降ったときには陸に登り、草の間を這い進む事もある。従って、ウナギは河川の上流域水流でつながっていない池にも侵入することが出来るのです。これが「うなぎ昇り」の語源であり、2つの河が交差する柳津がうなぎと関係し、虚空蔵菩薩と結びつくわけです。
柳津(やないず)と
ヤッズ(八頭 YAZZ)、、、何となく語感が似ていて親近感が湧きますね(爆)。
で、この
三大虚空蔵の1つ「会津柳津虚空蔵」が先に書いたようにメソポタミア ヴァレーが展開される那須のすぐ近くにあるのです。メソポタミア文明がチグリス川とユーフラテス川の2つの河の間の沖積平野に灌漑技術を導入して農耕に適した地を大規模に作り出すことで著しい生産性を引き上げて花開いたわけです。この2つの河の間で起きたことをシミレートしながら展開していくのがメソポタミア ヴァレーのコンセプトだとのこと。で、このチグリス川とユーフラテス川の交差するところは北方のちょうどアララト山あたりの山岳地帯になるでしょうか。
話は長くなってしまったが、このような大きなシンクロがオイラの背を
大きく後押ししてプロジェクト参画を「是非やらねば!」という思い湧きあがり、そうメール返信したところ、明日、皆で急遽、東京で打ち合わせをする運びとなった(汗)。
こ、こりゃ、、
蕁麻疹どころの騒ぎではなくなっただす~(滝汗)
で、当日、名無し先生と明治天皇の孫を囲み、名無し先生チルドレンの自給さん、マヨさん、オイラの
おっさん5名がテーブルで向い合ってお尻を浮かせながら前のめりで会議する姿は「密です! 密です!」と選挙遊説中のユリ子譲に指摘されるのではないかというビジョンが邪魔して、今夜は寝れそうにないだす~(滝汗)。
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