名無し先生から
笠岡の陶山城について調査せよとの指令が下り、調べてみた。
※どうもあのコメは名無し先生ではなかったようです。Hちゃけさんだった。。。。う~む、どこまで真相に迫れることやら、、、、(滝汗)
嘉承2年(1107)
陶山盛高が平正盛に従って出雲の源義親を討ち、その功により魚渚・西濱・甲弩を賜り陶山城を本拠地とした。子の陶山泰高が廃城となっていた西濱の古城(淵山城:洲山城)を再興して「陶山城」と名付けたが、 三峰からなる城山は本丸、東丸、西丸の連郭式山城の形を為し「洲浜紋」の由緒となっている。
つまり、
州浜紋の出所は陶山城だった、、、
現在、この
陶山城(西浜城・洲山城)は、山頂が削られて埋め立てに使われ、ほとんど遺構が残っていないこと、文献資料が発見されていないこと、過去に調査をおこなった先人たちの記録がない...等、謎のベールに包まれている。

(金浦の陶山城跡)
陶山氏(すえやまし)とは須山、巣山とも書くが、12世紀初めから16世紀初頭(平安時代から鎌倉時代)にかけて備中国(岡山県)笠岡地方を治めていた武士団のひとつ。出自は不明。後世には大江姓も称している。古代豪族・笠臣の後裔ともされ、一部が「カップルより猫の数の方が多い猫の島」で有名な真鍋島に渡り、ここから真鍋氏が興っている。
※ちなみに毛利氏の本姓も大江氏。この
笠(りゅう)臣とは笠岡市中心に支配した笠臣国造(笠国造)。笠氏の祖は笠臣国の領主「鴨別命」。鴨別命は吉備武彦の子で御友別の弟。新撰姓氏録では孝霊天皇の皇子・稚武彦命の後裔氏族と記されている。更に遡れば、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派したという。
鎌倉末期の
陶山義高は、竜王山(175m)に笠岡山城を築くと、それまでの陶山城から居を移し本城としている。国人として次第に成長し鎌倉幕府では奉公衆として名を連ね、元弘の変の際には鎌倉幕府方として、三種の神器を保持した南朝・後醍醐天皇の籠もる京都の笠置山を夜討ちして攻めている。後に陶山氏は後醍醐天皇方となった。
その後、足利氏が興した
室町幕府の奉公衆に属し(五番手)したが、永正三年(1505)、笠岡城山城主・陶山刑部高雅は毛利方の武将で讃岐国細川満氏の将である村上二郎満兼の来攻に遭い、防げずに城を明け渡し、神島の自性院に逃延び陶山氏の武将としての歴史は閉じた。そして笠岡山城は村上水軍の拠点となっていった。
簡略してまとめると、、、
■平家に従い源氏討伐 (平氏側)
■鎌倉幕府側として後醍醐天皇を夜襲 (北条氏簒奪した平氏側)
■後醍醐天皇側に付く (南朝側)
■室町幕府奉公衆5番手 (北朝側)あっちの派閥に行ったり、こっちの派閥に来たりしているが、基本的には南朝(百済・桓武平氏・藤原式家)派なのか?しかし出自は吉備氏の地祇系のようなのだが、、、この辺は離合集散が激しいのでなんともいえない。
で、この陶山氏の家紋が
「洲浜に山文字」
(洲浜に山文字)
「洲浜」は洲浜は河口にできた三角洲など水辺にできる島形の洲のいこと。また不老長寿の仙人が住む蓬莱山の仙境や竜宮城を見立てているともいわれ、ています。室町時代以降の工芸品や絵画の蓬莱山には必ず州浜が描かれる程に「めでたい形」とされた。 「洲浜」と名づけられた菓子があるのもその名残り。

(洲浜台)
陶山氏の発祥地である
笠岡金浦湾は深く曲がり入り込んだ湾であり「洲浜」のようでもあった。「洲浜に山文字」の下の2つの山は陶山城(西濱城)のあった金浦背後の行者山(標高100m)と、居を移して本城とした笠岡山城の竜王山(標高175m)の2つの山を表していると睨む。

先に陶山氏は須山、巣山とも書くと述べたが、
「陶」はスとも読み、朝鮮語でス(金)は鉄(くろがね)の意味。陶山氏は製鉄部族ともいわれる。牛頭天王=スサノオを祭神とする祇園信仰の神社である「須賀神社」の須賀とは、鉄(くろがね)を意味する「ス」と村の意味の「賀」であり、「鍛冶師の集落」を称する言葉。州浜の「ス」も須佐之男命の「ス」も鉄(くろがね)から来ている言葉かもしれない。
大本が言い出した
「スの神」という言葉があるが、 「ス」はアイウエオの第十三番目にあるが、13番目はイエス12使徒のトップに座すイエスと同じで、主(シュ)ではなく主(ス)と呼ぶのが正しいといい、この一輪の言霊を「ス」の神(言霊)とした。大本からの枝割れである世界救世教もその枝分かれである崇教真光でも同じく「スの神」を崇拝しており、崇教真光では「スの神」のことを「宇宙天地万物創造の主神(ぬしがみ)」で万物万霊共通の大親神であると主張。ワールドメイトでも皇大神御社で御親元素大御神を拝んでいる。このように大本系では創造主である宇宙の大元の神を「スの神」と呼ぶ。
スの神、、、
崇神ですね。
また、スの神とは、、、金(ス)の神、、、、
金神となる。
また、陶山氏は弓術に長け
「射手衆」として高名を上げている。笠岡市には767年に創建された甲弩神社があるが、古くは艮(うしとら)明神とよび、若建吉備津日子命を祀る。
※同母兄が吉備津彦命(四道将軍の1人で西道に派遣)スの神、金神、うしとら明神、、、、う~む、段々解けてきたぞ!
つまり、備中に興った陶山氏とは「ス」を求めて渡来してきた
スサノオ系列の渡来人であり、吉備氏-(鴨別命)-笠臣氏の流れから地祇系に属する氏族であることが判る。しかも敵方とはいえ後醍醐天皇(南朝=天孫系)という天皇位にいる者を夜討ちするとは、非常に畏れ多いことであり、通常の国人には出来かねること。地祇系ならではの所業か?
以上のように、陶山氏は
地祇系(新羅系)とオイラは睨んでいるが、同じく「洲浜紋」を使用する玉置神社社家の玉置氏はどう繋がるのだろう。玉置神社は熊野三社の奥の院という扱いになっており、熊野三社自体が出雲の熊野大社から勧請されスサノオ(徐福)を祀ったものであり、地祇系神社に属する。となると、玉置神社もまた地祇系に属する神社となる。
玉置氏の家伝によれば、
平資盛の子が熊野に逃れ、大和吉野郡十津川村の玉置山上に鎮座する玉置社の神官となったと伝える。同様に平資盛の後裔が越前国敦賀郡織田剣神社神官となり、その後裔が織田信長である。
※織田信長=南朝=桓武平氏=百済系=天孫系となりますが、南朝遺臣の「津島衆」が奉じた津島牛頭天王=スサノオを信仰し、家紋も同じにした信長なので南朝方であるのは間違いないが、スサノオ=地祇系ともなってしまうが、、、、うっ、また捩れが、、、、(滝汗)。後醍醐天皇の倒幕運動から起こった元弘の乱(1331~33)当時の荘司
玉置盛高は、幕府方として大塔宮(後醍醐天皇の皇子・護良親王)の入山を拒んだという。盛高の養子直光に三人の男子があり、長男は玉置社別当職を継ぎ、次・三男は紀伊国日高郡川上庄・山地庄に移って別家を立て、日高川沿いに進出した次・三男の流れが室町期に畠山被官となる玉置氏であろうと考えられている。
玉置盛高!!!陶山盛高と同じ名「盛高」です。しかし、生きた時代は大きく異なる(あはは)。
※陶山氏の通字は「高」玉置盛高は陶山義高と同じく南朝の後醍醐天皇に
対峙する鎌倉幕府側に属している。そして、同じ「逆さミッキー」を家紋としている。また、日本最古の家紋集録集である『見聞諸家紋』(東山殿御紋帳)によると、玉置氏は湯川氏とともに室町幕府(北朝)の奉公衆として四番方に属しているが、陶山氏は五番方に属している。同じような行動パターン、、、どうも同族っぽいなぁ。
自性院に逃げ延びた後、陶山氏は同族の
玉置氏に吸収されたのではないか?玉置神社の奥の院とは「陶山氏」を指すのか?
そして、もっと云ってしまえば、、、
「ス」を冠するが故伊に、、、、
スの神=国常立命=万物の大元=サンカの大元様=陶山氏 ということなのか?
これは
飛躍し過ぎだろうな(爆)。
大元様が家臣団に入ることはない。
もしそうなら、玉置神社の奥の院とは
陶山氏を指すことになるが、これでは「地祇系」となってしまい天神系天皇とは程遠くなってしまう。逆さミッキーが「後ろの正面」(天神系天皇)というのはガセだったのか?
う~む、これはオイラの三人の天皇の派閥比定が間違っていたのかもしれない。
■明仁今上天皇・・・【天孫系】
■玉置神社の奥の院(ニギハヤヒ系の子孫)・・・【天神系】→【地祇系】
■サンカの大元様・・・【地祇系】→【天神系】これが正しいのか?
確かに、国譲りした
ニギハヤヒ末裔という箇所からは、出雲神族とスサノオ血筋が入った出雲族(地祇系)であることは間違さそう。どうもジグソーパズルのピースの当て嵌め先を肝心のところで誤ってしまったようだ。しかし、これだとサンカシノガラ資金と大元様の関係が破綻してしまうのだが、、、(滝汗)
一応、
「寅の穴」創設者はこのように修正しておく。

一応、これで「
明治の仕組み(寅の穴)を全て作ったのは地祇系」という名無し先生の言説に沿うことが出来た。
では、陶山氏とは本当のところ一体何者なのだろう?
陶山氏の名を冠する
陶山神社がある。この名を冠した神社が備中笠岡と九州の「有田焼き」で有名な九州佐賀県の有田の2つが存在するが有田の陶山神社は明治期に改称されたもの。元は「有田八幡宮」と称していた。一方、笠岡の陶山神社は武神である経津主神と武甕槌神に加え陶山義高が併祀されているが、ここにはヤタガラスの置物があるという。
陶山氏=ヤタガラス?そういえば、
ヤタガラスの家紋で知られる熊野本宮神社の社家・鈴木氏も陶山氏、玉置氏と同じく「州浜紋」を使用している。陶山氏は村上氏から逃げた後、歴史の闇に隠れた後、ヤタガラスになったのではないだろうか? っていうか、元々がヤタガラスだった? だから南朝に付いたり、北朝に付いたり、後醍醐天皇を襲撃が出来た?
う~む、謎は深まるばかりです。
陶山義高は笠置山の後醍醐天皇を襲撃した後、後醍醐天皇勢力が回復し、番場の蓮花寺で六波羅探題(鎌倉幕府の職名、朝廷の動きを知る京都守護)の北条仲時と一緒に切腹したとされているが、地元笠岡の言い伝えによると、陶山城と陶山地区の中間地点の竹薮で陶山義高は観念して自害したという。ここに建てられたのが陶山神社。

(非常に質素な佇まい)
尚、
「陶山神社」は2つある。もう1つは佐賀県有田の陶山神社。主祭神は応神天皇とともに鍋島直茂と李参平(朝鮮の陶工)が祀られている。この鍋島氏から梨本宮に嫁いだ鍋島伊都子との間に方子が生まれ、李王朝に嫁いで日韓合同朝廷の長男を生んでいますね。間違いなく鍋島氏は渡来系でしょう。朝鮮半島とは限らないが、、、、
しかし、明治以後に
改称されて、こう呼ばれるようになっただけ。
一方、笠岡の陶山神社は同じく笠岡市の有田にある式内社
「在田(アリタ)神社」の末社ですが、祭神は苅田彦・苅田姫だという何の神かよく判らないらしい神らしい。一説には秋日に刈り取った稲の上に神霊が降臨したので苅田彦の名が付けられた「穀霊神」らしいが、、、、讃岐国の苅田氏(苅田首・紀氏一族を称した)との関連も窺わせる神の名だ。 また和歌山県有田市にはスサノオを祀る「須佐神社」がある。全てが「アリタ・カリタ」繋がりなのです。
スサノオ-「ス」の神-陶山-有田(アリタ)-苅田(カリタ)という何とも不思議なラインの存在が浮かび上がる。
これは周防と九州の田布施ライン(天孫系?)に対峙する吉備ラインなのか?
偽書とも言われる『先代旧事本紀大成経七十二巻本』では、
吉備は「黄蕨」「黄蕨津彦神」と記録されるが、この「黄蕨」は古代地名であり漢音は「コウケツ」。黄蕨国の蕨は突厥国からの渡来者を意味している言葉。吉備と同じ読みに羈縻(きび)があるが、これは「羈:午の手綱、縻:牛の鼻綱」を意味し、「手綱・鼻綱で周辺諸国を中国から離反しないように繋ぎ止めておく」古代中国の間接支配の方法。
突厥国は6世紀~8世紀半ばにモンゴル高原から中央アジアにかけての地域を支配したテュルク系(トルコ系)遊牧騎馬民族とその国家ですが、突厥という言葉自体がテュルクの音写表記。独自のソグド文字をもっていた。その首長は可汗(カガン)とよばれ、アルタイ山脈の麓に住んでいた。当初はモンゴル高原に勢力を伸ばした柔然に従属していて、鉱業に従事。突厥とは金山(アルタイ山脈)の形が兜に似ていたので兜のことを突厥と言った。柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、阿史那氏は遊牧民には珍しい鍛鉄技術で実力を伸ばし、552 年に独立して突厥(トルコ)と称した。備前には刀鍛冶が多いが鍛鉄(鉄を鍛えるこ)は備前刀作刀の基礎技術でもあり、突厥の渡来があったと考えられている。
吉備国で有力な家系は
有木(アリキ)氏ですが、備後一宮吉備津神社の社家で備後の吉備津神社が備中から分霊された時に 共にしたがって備後に来たといわれる。元々は「有鬼」であって「有木」に改姓させられたという。魏志倭人伝に出てくる有鬼(うま)国と 鬼奴(きな)国がこの吉備国であろう。
つまり、
吉備氏は突厥の渡来人であり、笠臣氏も陶山氏もその流れを汲む家系なのだろうか? まぁ、渡来人はいっぱい列島にやって来ているが、列島につてのない民族はこの吉備国に繋がれていただろう。
以上から、陶山氏が
ヤタガラスであった可能性は非常に高い。
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コメント
我々が鬼の国のピーチボーイメーソンです(笑)
日月水火神社(ひつきびじんじゃ)いかれましたか?
日月神社もありますが全国的にあるもんなんですか?
岡山は火と水がナルトのように渦巻くパワースポットだってばよ(笑)
桃ノ助
2014/10/12 02:01 URL 編集返信ルカ
2014/10/12 05:17 URL 編集返信ルカ
2014/10/12 05:31 URL 編集返信美保子
2014/10/12 10:37 URL 編集返信-
2014/10/12 23:35 編集返信シュン
2014/10/13 17:11 URL 編集返信駿治
2014/10/19 15:28 URL 編集返信