道鏡でどうでしょう

初期大王家(扶余カド族)と後期大王家(百済エフライム族)の政権奪取を掛けた国内最大の内乱が「壬申の乱」ですが、この内覧に初期大王家(上宮)が勝ち、大津から飛鳥に都を移して中央集権体制を進め、この日本の今ある形を作りました。しかし、その後の展開は後期大王家(下宮)が初期大王家を駆逐する形で進み、倭旨以来300年間続いてきた初期大王は長屋王をもって滅亡した。

下記に記紀で知られている天智天皇、天武天皇以降の系図を示す。

天武系図
(図クリックで拡大)

この系図では(39)弘文天皇~(44)元明天皇までが初期大王家と後期大王家の間で帝位のタスキ掛け人事が行われているのが分かります。タスキ掛け人事は日銀総裁が財務省と日銀生え抜きで行われていますが、古くは後醍醐天皇の南朝と北朝の間でも行われていた歴史のあるやり方です。しかし、壬申の乱い負けた側とタスキ掛け人事を行うのは非常に不自然ですね。

ただ、この異様さは天下分け目の「関ヶ原の戦い」で勝った東軍(徳川方)と負けた西軍(豊臣方)で以後の行政運営をタスキ掛け人事で行うことが有り得ないのと同じです。

ここに歴史改竄があるのは明白です。

しかも、それは長屋王を自害に追い込み百済系が覇権を握った為に、桓武天皇が何の問題もなく帝位が禅譲されたように改竄指示したわけです。ですから、天武天皇~桓武天皇の間においては、帝位、事蹟、人物...等、あらゆることに改竄の手が及んだと想像がいく。逆に言えば、そのぐらい大幅な改竄が必要だったわけなのです。

下は語り部の述べる内容を基に系図を修復再構成したものですが、文武天皇以降、全て初期大王家側で帝位が継承されています。まぁ、乱に勝ったのだから当然といえば、当然なのですが、、、、この方がスンナリいくのです。
※註 一部、元明帝が百済系だが、、、初期大王家に嫁入りしている。初期大王側とも言えなくはないが、皇族ならば帝の妃でも帝位が譲れるというのは、皇位継承ルールはかなりアバウトな感じを受ける。

■初期天皇家系譜
http://www.pleiades15.net/history/folder27/yamato2.html

真天武系図
(図クリックで拡大)

織田信長が初期大王家の直系末裔というのは、あながち外れていませんね(笑)。前記事で洞察したように、津島牛頭天王を祀る南朝忠臣の末裔である「津島衆」と昵懇だった信長は自分が天皇に成り代ることで、初期大王家再興を図っていたと思われます。南朝は吉野に取り込まれましたが、吉野・熊野自体、その成り立ちは徐福末裔の初期大王家に恭順化した弥生人であり、政争に敗れた初期大王家忠臣や南朝忠臣や藤原南家...等が集積していった「アンチ藤原北家」の一大勢力。明治政府が維新時に熊野吉野勢力を恐れたのもこれ故でしょう。

語り部によると高市皇子が文武天皇だという。その他にも舎人親王が淳仁天皇、持統天皇は正妃でもなくまして天皇でもない(天武の御落胤狩りで三川大虐殺の功績で天皇と書き加えられた)...等、記紀に述べられていない驚く内容ばかりです。

確かに、持統天皇の即位には怪しさがある。天武天皇の遺児は星の数ほどいて、先帝の皇后がすんなり即位できる状況下ではなかった。第一、持統は天武の宿敵・天智天皇の娘であり、壬申の乱の功臣がいまだ健在だったこの時期、この女人の即位を誰が望むというのか? また、持統の即位自体、群臣の協議・推戴もなく、また儀式でも盾、矛を立て、天津神の寿詞を読み上げるという初めて行われたものであり、「普通ではなかった」のです。藤原不比等私邸を宮にしたといい(『扶桑略記』)、即位も私的な行為だったのかもしれない。

大津皇子を暗殺したのも持統(広野媛)だろう。史実では親友の川島皇子(天智天皇の第2皇子で「吉野の盟約」メンバー)の密告により、大津皇子は謀反の意有りとされて捕えられ、翌日磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜ったという。享年24。

しかし、別の伝承もあるのです。

この時大津皇子以下、妻と付き添いの5人が船で脱出して東三川の牟呂に流れ着き、そこで長年暮らした。その後、持統が東三川行幸(天武御落胤狩り)に来た際、逃れられないと観念して入水自殺をしたという。この遺体を祀ったのが牟呂八幡社であることが地元の伝承として残っている。この牟呂八幡は「ええじゃないか」の発祥地でもあり、またオイラの幼少の頃の遊び場でもあったので非常に感慨深い内容なのです。
(はなまるさ~ん、情報ありがとうございます!)

■大津皇子と牟呂八幡宮 民話「海に消えた皇子」より
http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-10819830648.html

文武天皇の長子・長屋王の邸後から出土した4万点にも上る木簡からわかったことは、長屋王は「長屋親王」と呼ばれていたことが判明したのです。律令制度では「親王」は天皇の息子または孫に天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗ることは出来ず、また、屋敷自体が個人邸では決して門を作れない二条大路に対して北門があったのです。これは長屋王が実は皇太子やそれに準じる位ノ者であった可能性が高いのです。

父の高市皇子は天武天皇の第一皇子で壬申の乱の立役者だった為、草壁皇子以上に有力な皇位継承資格者だったのですが、母親が地方豪族の胸形尼子の娘と身分が低かった為に皇位を継ぐことはできなかったとされる。しかし、語り部の話では、母は出雲王朝末裔の葛城氏(所謂、蘇我氏)出身の胸形尼子娘(庄子)だといい、尾張王朝の尾張氏同様、皇后になれる身分の高い家柄だったのです。で、本当は文武天皇の正妃(皇后)であったという。実際、乱で負けた百済系の娘である広野媛(所謂、持統)が同母姉の大田皇女を差し置いて正妃となるのはどう考えてもおかしいのです。
※註 胸形徳善=蘇我入鹿=鞍作毛人

さてさて、このように天武天皇誕生(631年)から桓武天皇即位(781年)の間の150年間は怒涛の歴史改竄の連続ですが、この期間には実に不思議な謀反が発覚している。それが「長屋王の変」(729年)、「橘奈良麻呂の乱」(757年)、「藤原仲麻呂の乱」(764年)、「宇佐八幡宮神託事件」(769年)です。
※註 「乱」と「変」の違いは、現百済系皇統が起こしたのが「変」で敵対側が起こしたのが「乱」

■長屋王の変
左大臣・長屋王が「ひそかに左道(異端の術)をもって国を傾けようとした」として、藤原不比等の息子・藤原宇合らに率いられた兵士が突如、長屋王邸を取り囲み、観念した長屋王は2日後に服毒自殺し、後を追うように妻の吉備皇女、4人の王も服毒自殺したという事件。この事件により初期大王家は滅亡。この事件は藤原氏出身の母を持つ首皇子の即位を強行して聖武天皇を誕生(724年)させ、今まで皇族側にあった政治の主導権を手にしようとする藤原氏の総仕上げの陰謀だった。


これは百済系の藤原氏の毒殺と見て間違いない。また、その後の藤原四兄弟の天然痘による相次ぐ死(737年)は長屋王の呪いとされているが、これは扶余系の報復の毒殺だろうと睨んでいる。そして、その後に起こったのが「橘奈良麻呂の乱」です。

■橘奈良麻呂の乱
藤原氏の台頭に危機感を抱いた橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を滅ぼして天皇の廃立、及び塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から次の天皇を推戴を企てたが、密告により露見して未遂に終わったという事件。捕らえられた謀反一味の大方は拷問死したという。この事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にの登ったというが、この事件で藤原仲麻呂は政敵全てを葬ることが出来たというが、誰が主犯か分かるような結末です。


この変の7年後の764年には「藤原仲麻呂の乱」が起り、今度は藤原仲麻呂の勢力は政界から一掃され、藤原仲麻呂が擁立した舎人親王系の淳仁天皇は廃位され淡路国に流された。孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移っていき、代わって孝謙が再び即位(重祚)し称徳天皇となった。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることとなったという。

■藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙は、山村王を派遣して淳仁の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが鈴印は孝謙の元に渡り、結果、仲麻呂は朝敵となって太政官印を奪取して近江国に逃走したが殺害された。仲麻呂敗死後、左遷されていた藤原豊成を右大臣に、道鏡を大臣禅師とした。淳仁を廃して大炊親王とし淡路公に封じて流刑とした事件。淳仁の廃位によって孝謙は事実上皇位に復帰し舎人親王系から政権を奪った。


特に、扶余系から百済系に帝位が移って光仁天皇即位(770年)となる前年の769年には、有名な「宇佐八幡宮神託事件」、、、所謂、道鏡事件が起きているのです。

道鏡がこれほど迄に女帝の寵愛を受けたのは巨根だったからという最もらしい話があるが、これ故に「東洋のラスプーチン」と言われるが、その真偽は明らかとはなっていないw

道鏡事件のあらましはこうです。

神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上したという。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められたが、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣したという。

清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣し、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上。

道鏡を天皇に就けたがっていた称徳天皇は、この報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷、「別部穢麻呂」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売」と改名させられて処罰したという。これが道鏡事件と言われるものです。

道鏡
(快僧道鏡)

大和政権の問題に何故、宇佐という九州が関与してくるのか?という不思議さがあるのですが、初期大王家の傍流である尾張王朝は廃止後、宇佐神宮の宮司家となったといい、ここに初期大王家(上宮・扶余系)とのつながりがあり、関与があるのでしょう。まぁ、当時はそのぐらい扶余系(上宮)と百済系(下宮)の権力争いはエスカレートし、両家の確執は修復不可能なところまで来ていた。称徳天皇は政権安定化策を模索していたと思われ、同族の宇佐神宮の意見を参考にしただろうと考えられる。

また、この時期には高野天皇と呼ばれる女性が孝謙天皇・称徳天皇として二度即位(重祚)していますが、女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わらなければならない為、政治バランスが不安定な時には中立的に立てられたということから、その不安定さが分かろうというものです。
※註 その後、女帝は850年立てられることはなかった。この先例からも、少し前の女性天皇、女系天皇論議が実に不毛なことで、ある勢力の横槍的な策動だというのが分かるかと思う。日本の皇統は英国のエリザベス女王の子息が皇太子にようになるような甘いものではないのです。

しかし、この道鏡事件、清麻呂を主祭神として祀る京都の「護王神社」には、以下のように伝わっているという。

****************************************************
■護王神社に伝わる道鏡事件
奈良時代末、称徳天皇の神護景雲3年(769)、当時法王となり権勢をふるっていた弓削道鏡は、天皇の位を我が物にしようと、太宰府の習宜阿曽麻呂に宇佐八幡より「道鏡を皇位に就かせたなら天下は太平になる。」との御神託があったと奏上させました。驚いた称徳天皇は、清麻呂公に宇佐八幡へその御神託が本当かどうかを確かめさせることにしました。道鏡は清麻呂公を呼び、自分に有利な報告をすれば、大臣にしてやろうと誘惑しました。清麻呂公は宇佐八幡に着くと、身を清めて御神前に進みました。神主から伝えられた御神託は阿曽麻呂が奏上したとおりでしたが、清麻呂公は御神前にひれ伏して、

「今の託宣は信じ難し。願わくば真意を示したまえ。」

と叫びました。すると、光の中から宇佐の大神が現れ、次のような御神託を下されました。

「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと 未だあらざるなり。天つ日嗣ぎは必ず皇儲を立てよ。無道の人は 宜しく早く掃い除くべし。」
(我が国は始まって以来、君主と臣下との区別がはっきりしている。臣下の者を君主とすることは未だかつて無いことである。天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい。)

清麻呂公は都へ帰ると、このことを堂々と称徳天皇に報告しました。身を賭して道鏡の野望を挫いたのでした。天皇の側でこれを聞いていた法王道鏡は大変怒り、清麻呂公と広虫姫を死罪にせよと怒鳴りましたが、天皇は道鏡をなだめられ、二人とも死罪にするのは忍びないと、罪一等を減じて、清麻呂公を大隅国(鹿児島県)へ、広虫姫を備後(広島県)へ流罪にすることにしました。

清麻呂公が大隅へ出立すると、道鏡の放った刺客が清麻呂公を襲ってきましたが、突然雷鳴が鳴り響き、豪雨が降り出して、辺りは真っ暗闇になりました。そこへ勅使も駆けつけて刺客達は逃げていきました。しかし、清麻呂公はこのとき足の筋を切られてしまいました。

途中、清麻呂公は御神託によって皇室の御安泰が守られたことを感謝申し上げるため、宇佐八幡へ向かいました。一行が豊前国に差し掛かったとき、どこからともなく三百頭もの猪が現れて、清麻呂公の輿の周りを守りながら、宇佐八幡までの十里の道のりを無事に案内し、またどこかへ去って行きました。

すると清麻呂公が悩んでおられた足萎えも不思議に治りました。配所の大隅国での生活は大変不自由なものでしたが、清麻呂公はこの地で治水事業などに功績を残しました。


■護王神社HP
http://www.gooujinja.or.jp/yuisho.html
****************************************************

とあるのです。つまり、称徳天皇(高野天皇)が怒って清麻呂を流罪にしたのではなく、道鏡が怒ったが故に天皇は仕方なく流罪にしたというのが本当だった。しかも和気清麻呂が向かったのは宇佐神社の上宮でも下宮でもなく、大尾神社(宇佐神宮内・主祭神:八幡大神)だったのです。

■大尾神社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ooita/usasi/oo/oo.html

ここに何かプンプン臭うだす。
語り部はこの道鏡事件に関しては、このように述べている。

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■因みに弓削道鏡とは本名では無い。物櫛麻呂であり毒殺を依頼され田舎からのこのこ上宮家の女帝を暗殺する為に出て来たのであり百済王族系天皇族は道の鏡と評価したので有る。

■弓削道鏡は、本名物櫛麻呂で、称徳天皇を裏切り毒を飲ませそれが元で崩御する。世話をしたのは、宗形綿麻呂[吉備真備]の姉由利である。三文字の名は三王朝時代の結束を思い起こさせるものであるが、初期天皇族に仕えるのに疲れたのである。

■道鏡事件は実は、神託に伺った内容が記述とは異なるのです。 高野(孝謙/称徳)天皇は自ら即位した際の政情安定化に関心があり政権闘争が続きそうなら即位しない意向****だったのです。 高野天皇を擁立した「吉備真備」ではなくその一族***「和気清麿」が神託を伺いに出向く訳です。良い神託が下りたので漸く即位したのですが、結果として災いした事から後世に改竄された(預言的)神託内容を記述させただけなのです。重用していた親子**のうち親の「弓削道鏡」に裏切られて毒を盛られ最後には自らを擁立した「吉備真備」にも会わず(治療も拒否し) 権力を手中に収める事に関心の強い夫や子供(実は「弓削道鏡」の仲介で結婚していた)とも会わず、その娘だけ(*由利「吉備皇女」)に面会を赦したのは、其の為です。

****「吉備真備」は、文室浄三、大市を推すが拒否される(扶余と百済系の長期化している政権闘争に嫌気が差していた皇族多数)
***双方「蘇我入鹿」の孫と曾孫です。
**「弓削道鏡」と弓削姓を賜る浄人は実の親子。
*長屋親王(長屋王)の正妻。クーデター(長屋王の変。殺害)で心中してません。

補足へ

幾ら政治的に対立していても妻(高野)を殺された夫(高紹)として側には置けない訳です。(旧政権の人間ですし、旧政権側の暗殺も有り得ますから)因みに「道鏡」は僧ではありませんでしたし、結局暗殺されました。これ以上暗殺劇が起こらない様、天皇の権威も高めました。【(高紹、弥照の二代で。)「天武」の始めたと言う皇親政治も権威強化の創作】

「和気清麿」は神託を得た故、夫の高紹御世には昇進出来ず。(弥照御世四階級特進)

「弓削道鏡」は、高紹と高野婚約に功績あり「施基皇子」の子と記載される。

****************************************************

弓削道鏡は女帝を虜にしたのではなく暗殺しに来た、、、まぁ、確かに女帝は最後には病臥して亡くなっていますが、、、

物櫛麻呂は、名前から分かるように物氏(物部)であり、物部氏は初期大王家の傍流・尾張王朝(倭特玉が祖)の傍流である。本来ならば、初期大王家(扶余系)を支えなくてはならない家柄の出です。それが暗殺に走るとは尋常ではない出来事ですね。

称徳天皇は770年2月、由義宮に行幸したが、3月なかばに発病し病臥。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、この時、病気回復を願う祈祷が行われたという史料がないことから暗殺説が根強くある。称徳天皇は生涯独身で子もいないことから、誰を次の帝にするのかでもめたというが、語り部は孝謙(称徳)天皇には夫がいたというのです!!!

その夫が後の光淳天皇となる百済系の白壁王(高紹)だったとは、、、しかも、その結婚を道鏡が仲介していたとは、、、、道理で孝謙(称徳)が道鏡を近臣とする筈ですね。巨根話はガセだったw
※註 桓武天皇の生母は「高野新笠」ですが、この「高野」は孝謙(称徳)を通名で呼んだ「高野天皇」と全く同じなのです。「高野新笠」の姓は和(倭)氏で新参の百済系王族渡来人とされているが、その詳細は不明なのです。桓武天皇は勅命で生母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上したという。ここに何やら「扶余系を無かったことにする」という改竄の臭いがする。

合議では、吉備真備は天武帝の子である長親王の子息の「文室大市」もしくは「文室浄三」を推したが、藤原永手や藤原宿奈麻呂・藤原百川は天智帝の子「白壁王(高紹)」を推したとある。永手らは白壁王を指名する称徳の遺詔を読み上げ、これにより「白壁王」が即位して光仁天皇となって政権基盤は百済系に完全に移ったが、この遺詔は偽造されたものであったという。

道鏡の結婚仲介も百済系の後期大王家の王子と結び付け、暗殺した後に政権を百済系に持って行き、扶余系政権を終わらせることのあったと言え、その遠謀な内容に驚きを禁じえません。

この蛇のような知略に長けた百済系の完全勝利で幕は閉じたのですが、ここから天皇を自らの冠とし影から支配する藤原氏の支配が現在までの1300年続くこととなったのです。

天智天皇と天武天皇の確執から始まった「壬申の乱」は、このように百済系の勝利という最終結末となったのですが、この戦いは天智の「智」と天武の「武」が表しているように、そのまま蛇神の「智慧の木」側と牛神の「生命の木」側の代理戦争でもあったのです。

この時は蚩尤(しゆう)の赤旗をシンボルとする天武天皇の「生命の木」側が負けたのですが、今、その復活がジワリジワリと起きている。それはポピ予言が語る「赤いシンボル」の赤い兄として顕されるのですが、卍(自然力、ナチス産軍複合体)と太陽(CME、日本の原発事故)をシンボルに持つ従者の援用によって復活するのであり、この牛神(バアル)の復活が「フェニックス」だと思う。

それが起きるのは、大津皇子も流れ着き、古くは徐福国討伐、壬申の乱の主戦地、持統の御落胤狩り...等の舞台となりながらも、歴史を改竄されて黄泉国とされた東三川であると睨んでいる。そう断言するのも、ここが東海三神山を配した神仙の地で真のミドルアース(豊葦原中つ国=カナンの地)であったからです。
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コメント(4)
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2012/09/16 02:56 編集返信
如何がせむ
尖閣諸島に千隻の中国漁船がやって来るとか。

日本政府はどう対応するんでしょう。

翡翠

2012/09/17 19:09 URL 編集返信
初めまして。
初めまして。
たまたまネットサーフィンをしていたところこのブログにたどり着きました。
この記事をお書きになる際に参考にされた書籍があればぜひ教えていただきたいです。
古代史にはまりたての新参者ですが、楽しく読ませていただきました。

夏希

2015/05/17 01:01 URL 編集返信
Re: 初めまして。
> 初めまして。
> たまたまネットサーフィンをしていたところこのブログにたどり着きました。
> この記事をお書きになる際に参考にされた書籍があればぜひ教えていただきたいです。
> 古代史にはまりたての新参者ですが、楽しく読ませていただきました。

基本的に書籍ではなく、ネット情報ですね。
オイラが語り部と呼んでいる方(邇波言壱、sss_fe555)の内容をベースに調べたことを書いています。

(語り部情報)
■邇波言壱著作 出雲王朝
http://www.pleiades15.net/history/niwa.html
■世間話の掲示板
http://8305.teacup.com/kasaburanka15/bbs?&OF=0

いづれも無くなってしまいました。
今はYAHOO智恵蔵のsss_fe555ぐらいにしか見つかりません。

■YAHOO 智恵蔵
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/sss_fe555

あとは「邇波言壱」とぐぐれば色々と出てきます。

ヤッズ★

2015/05/17 09:34 URL 編集返信
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