上古、東三川は
穂国・豊国と呼ばれていたと語り部はいう。歴史改竄隠蔽の際に九州の地に移されたというが、、、これはあまりにもトッピ過ぎる意見ではある。
「穂国」は問題ないにしても、「豊国」は律令制以前の国の一つで、一般には九州の大分の豊前・豊後を指すと考えるのが主流というか、当たり前田のクラッカーなのだが、、、語り部は敢えてそれに反旗を翻している。こういう点に非常に惹かれているだす。
確かに、
東三川には豊橋市、豊川市、豊川と「豊」が付く地名が多い。愛知県全域に広げてみれば、豊田市、豊明市、豊根村...と「豊」が付く市町村自治体がこれまた多いのです。しかし、昔は豊橋は「吉田」、豊川は「飽海川」と呼ばれていて「豊」が付くのは豊川だけとなってしまい、あまり意味がなくなってしまうのだが、、、
古事記・日本書紀を紐解いてみれば分かりますが、推古天皇の諡号「豊御食炊屋姫尊」、聖徳太子の「豊聡耳」、「豊岡姫」「豊葦原瑞穂国」「豊鋤入姫命」「豊斟渟尊」「豊雲野神」...等があり、記紀は「豊」のオンパレード。「豊(トヨ)」は当時かなり一般的に使われていた言葉だったようなのです。
この「豊」を使った言葉に
煩フル最頻語句の「豊葦原瑞穂国中津国」がありますが(笑)、これは「葦原中国」とも書かれるように「豊」+「葦原中国」と分解出来るのです。つまり、「豊」が冠のようになっていて、例えば、ソニー損保、ソニーエリクソン、ソニーコンピュータエンターエイメント...等の「ソニー」のように、何らかのグループ属性を指しているように思われる。
本当に東三川が
「豊国」だったのか?
今回、ここに狙い撃ちで洞察してみる。
『豊後国風土記』では、豊国の名の由来について以下のように伝えている。
「景行天皇(71-130年没)の命によってこの地域を治めていた菟名手(うなで)が仲津郡を訪れると、白鳥が飛んで来て、まず餅となり、次いで冬であったにもかかわらず幾千もの芋草(里芋)となって茂ったので、菟名手がこの芋を天皇に献じたところ、景行天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜んで、この地を「豊国」と名付けた。」ここから「豊国」は
里芋の産地という条件が付く。里芋はインドからマレーシアにかけての南アジアが原産地。この中には「唐芋」がありますが、この変化したものに親イモ、子イモ、孫イモが塊状になる
ヤツガシラ(八頭)という品種があり、子孫繁栄の縁起物として正月料理等にも用いられている。「白鳥が飛んで来て、まず餅となり」という記述が花を付けずズングリとした餅状の塊であることや「幾千もの」とあるように親・子・孫が連なる様がヤツガシラを想起させる為、オイラは景行天皇に献上した芋はこのヤツガシラだと睨んでいる。実際、ヤツガシラは美味であり、収穫量が少なく珍しいからこそ喜ばれたのだろう。(ふふふふ)

余談ですが、
ヤツガシラ(八頭)という鳥もあります。日本へも渡ってきますが、戦後、皇居に1個体が飛来した際、昭和天皇は皇居内の畑で芋堀りをしており、ヤツガシラを見つけた途端、侍従に急いで双眼鏡を持ってくるように命じ、事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡が何故いるのですか?」と聞き返したというエピソードがある。この時、掘っていた芋は「ヤツガシラ」だとオイラは密かに睨んでいる(爆)。

(ヤツガシラはイスラエルの国鳥)
だいぶ横道にそれてしまった、、、(汗)
仲津郡は
大分県だし、まぁ、それは『豊後国風土記』だから当然といえば当然のことで、風土記自体がある目的(神代歴史の改竄)を持って書かれたものだから、当然の帰結です。実際、邪馬台国以前の71-130年に九州の大分に中央からの覇権が及んでいたとは考えにくいのと、律令制以前に「国造」など存在しないのです。
『国造本紀』には、
「豊国造は伊甚(いじみ)国造と同祖で、宇那足尼である。」とあるが、これらの文献から、豊国を治めたのは「菟名手」または「宇那足尼」ということが分かる。「菟名手」は国前氏,豊国氏の祖とされていますが、景行天皇が九州遠征の途中,周防の娑麼(さば・山口県防府市か)で敵の煙をみつけた時に菟名手は他の2名と情勢をさぐった。のちに天皇から豊国の支配権と豊国の氏をさずけられたという。いづれも景行天皇の御世であり、多分、「菟名手」「宇那足尼」は同一人物なのだろう。
宝飯郡小坂井(現・豊川市)にある
菟足神社は徐福渡来伝説が残り、12匹の雀(古くは猪、もっと古くは人身御供)を犠牲に捧げることで有名な神社ですが、この神社の祭神が「菟上足尼命」で「菟名手」「宇那足尼」に非常によく似ているのです。(ニタリ)。
※註 『今昔物語』には菟足神社の春祭(風祭、生贄祭)の人身御供の話として「菟足(うたり)神社の大祭の日にこの橋を最初に渡る若い女を生け贄にする風習があった。男が生け贄を狩りに行くと不運にも自分の娘が来たではないか。男は,「自分の子だが」生け贄にした。」と書かれている。この残忍な様を見た国司・大江定基(和泉式部の父)は出家して唐に留学し寂照法師となった。この人身御供振りはモレク信仰ではないのか?『先代旧事本紀』によれば、御祭神の
菟上足尼命は葛城襲津彦(武内宿禰の子で、葛城氏の祖)の四世の孫で、雄略天皇(456-479年9月8日没 倭の五王の倭武に比定)の御代に「穂の国」の国造に任じられたという。菟上足尼命は善政を敷き、殖産・治民に功績をあげたことから、その没後、平井の柏木浜に祀られた。さらに白鳳15年(675?)神託により秦石勝(秦河勝の子)によって現社地に遷座したというが、実際には大雨で洪水が起きて流され漂着したようだ。
※註 『先代旧事本紀』は偽書との評価だが、国造関係は他資料を参照に作られたと考えらており、この箇所には資料的価値があるとされる。景行天皇と雄略天皇では時代がまるで違う。しかし、前時代に事跡内容を移して創作し、昔から支配してきたことにしているという推測も可能だ。
また、熱田神宮に収まる前、
「草薙剣」はこの菟足神社に保管されていたという伝承もある。ここが元熱田なのです。古代最強最大の水軍「日高見水軍」を熱田のアユチ港に持っていかれた際、そのまま「草薙剣」も熱田神宮に移された。成る程、語り部が「草薙剣(天叢雲剣)=海凪の剣=イチイの木から【モーセの杖】を模した護符」とするのは、この水軍と関連があったからでしょうか。
日本武尊が東征の帰路、伊吹山へ出立する際に草薙剣(天叢雲剣)を預けた場所が、名古屋市大高の常世島にある「氷山姉子神社」ですが、元は「火山姉子神社」といっていた。それはこの地が「火高火上(ひだかひかみ)」と呼ばれる、つまり日高見国だったからです。その後、草薙剣は熱田神宮に移されたという。
■氷上姉子神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E4%B8%8A%E5%A7%89%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE(「姉子」とは「夫のない乙女」の意味で、日本武尊が娶った宮簀媛(ミヤズヒメ)を偲んで付けられた名称。ちなみに、この名前から「スケートの神様」だとされている。名古屋は伊藤みどりや浅田舞/真央姉妹...等の有名選手が多くフィギュアスケート王国ですが、この神様のお陰かもしれませんw)近くには
「日本武尊寝覚の里」の石碑がありますが、これは日本武尊とミヤズヒメが毎夜契りを交わし、朝、打ち寄せる波の音で目を覚ましたというロマンチックな伝説の地。しかし、この同じ場所の蓬州日高見国常世島(現・愛知県名古屋市緑区大高町)で、初期大王家の倭明(用明天皇)が土木灌漑工事に尽力した後の晩年、老齢になって大王になることを決意し「新大倭豊王朝」(河内王朝 正式名・南加羅国)の大王と成って「上宮家」を創設した話から「寝目覚めの里」となったという。
「蓬州」は古くからの尾張の雅名ですが、名古屋は別名「蓬左」(蓬の左側)と呼ばれていた。これは熱田の地が「蓬莱島」、「蓬ヶ島(よもぎがじま)」と呼ばれていた為であり、この「蓬(ほう)」が「豊(ほう)」となって、更に「豊王朝」とされたのではないだろうか?
ならば話は簡単。
「豊」とは上宮(初期大王家)に属する者に冠に付けられる美称となる。
古くは
「葦原中つ国」と呼ばれた東三川も、初期大王家に滅亡させられた後は「壬生の地」となり、「豊王朝」圏内ゆえに「豊葦原瑞穂国」と呼ばれるようになったと考えられる。これで愛知県に「豊」の字を持つ地方自治体が多い理由も納得がいく。広域的には愛知県が「豊国」ということになるが、その源泉は当然「蓬」のオリジナルである蓬莱山のある東三川である。
愛知県中村区のサンカ出身の羽柴秀吉は
「豊臣」という姓を朝廷から賜りましたが、これは「豊の国の臣下」といった意味。愛知県が「豊の国」という認識があったからこそのネーミングなのでしょう。
しかし、これでも「豊(ホウ)」を
「トヨ」と読むことは出来ない。ここにはもう1つ解かねばならぬ何かがある、、、、いったいそれは何なのか? それを解くには、菟足神社に再び話を戻さねばならない。それはここが「蓬」の名の元となった「元熱田」でもあるからだ。
語り部説では、
景行天皇は「倭讃」、雄略天皇は「倭武+倭継」の事跡であり、豊葦原瑞穂国中津国の攻略は倭讃の頃から始められ、倭讃時代に既に本国を奪われ、4代後の倭武の頃に関東(千葉北部~茨城筑波山)に逃げた末裔を討伐して完了したという。この景行天皇(倭讃)徐福国東征軍の先導を務めたのが邇波彦佐須伎、邇波船穂足尼(フナホタルコ)。
語り部は「邇波氏直系子孫=葛城氏(鞍作氏)」と云うので、同行した「邇波船穂足尼」が「菟上足尼」ではないかとオイラは一瞬睨んだが、、、これは飛躍し過ぎかもしれんw(実際、時代がかなり違う。菟上足尼はかなり後世の人)
※註 語り部は邇波矢田彦(出雲王朝開祖)の子には、彦佐須伎【倉岐?】(ナガスネヒコ【明国彦】の父)と船穂足尼(但馬国造)の2人の兄弟がいる。しかし、それ以前の菟足神社の祭神は
「朝廷別命」だったという。ちょっと変わった名です。
古事記の開化天皇の箇所には
「朝廷別王【四柱】此朝廷別王者【三川之穗別之祖】」と記されているが、穂国造ではなく「穂別」、、、謎の言葉です。第17代天皇に履中天皇がいて名を「大兄去来穂別尊」といい、ここに「穂別」が出て来ますが「穂別」が何を意味しているのかよくわからない。ただ、この履中天皇の母は「葛城襲津彦」の娘の磐之媛であり、菟足神社の祭神・菟上足尼命(穂国造)は「葛城襲津彦」の4代孫であることから、履中天皇と菟上足尼命と「穂国」は何らかの関係がありそうです。
※註 アイヌ語の「川」には「ベツ(別)」と「ナイ(内)」の2種類あり、「ベツ」は水かさが増すとすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川を現わしているという。豊川は洪水が多く江戸時代には上流に「霞堤」と呼ばれる不連続な堤防を建設し、昭和には豊川放水路を建設。治水に苦労した後が伺える為「ベツ(別)」になるだろう。ですから「穂別」とは「寶飫の別(川)」いうように今の豊川周辺地帯を指していたのかもしれない。語り部によると、この当時は三王朝時代で東三川の穂国は大倭とは
別の王朝に属する国だったので、「朝廷が別の王」という意味から「朝廷別王」と呼ばれたのかもしれません。「穂国」は自陣営になってから与えられた語であり、他陣営の時は「穂別」と呼んだのかもしれない。ならば、この別王とは倭讃東征以前の徐福末裔の大漢国本来の治世者(王・族長)だった?、ただ「朝廷別王」は丹波道主王を祖としているので徐福末裔の王ではなく、徐福国討伐後の監視の為に配された邇波氏系の者だろうと思う。そして、その者は「美己止直(みことのあたい)」ではないかと云われる。その後、大倭に統一化され葛城氏系に入れ替わったのだろう。
以上から、
東三川が「豊国」と呼ばれていた可能性がゼロではないことが分かってきた。
では、この
「豊」とはいったい何なのか?
「豊」は旧体字では
「豐」(ホウ)、
「豊」(レイ)の2つの漢字に対応している。
1)豐(ホウ)・・・豊富、ふくよか、盛ん、多い、大きい、実る、豊作の意味
2)豊(レイ)・・・穀物を入れる高坏(たかはい)の食器の意味 別字は「禮」「醴」人類補完計画の実験体
綾波レイやニュータイプの先駆けアムロ・レイの「レイ」とは、神に捧げる高杯の「豊(レイ)」からだったかもしれんだすな(爆)。
ただ、不思議なのは「豊」と書いて
「トヨ」と読む点です。「ホウ」「レイ」「ゆたか」と読むだけでは収まらずに使用している。先に「トヨ」という言葉があって、それに「豊」という漢字を宛がったように思えるのです。ここに何か重大な秘密がありそうですな。
「豊」を使った最大のものに
「豊受大神」がありまが、この「豊受(トヨウケ)」とは「止由気(トユケ)」から来ている言葉であり、「鳥」を指し「天女」を意味する。また「豊浦(トユラ)」とも関連し「トユラ=隠匿」だと語り部はいう。なかなか謎に満ち満ちている(汗)。
籠(この)神社の社伝によると、神代の昔、今の奥宮の地「真名井原」に匏宮(よさのみや、与佐宮とも)として豊受大神が鎮座されたという。その後、崇神天皇の御代に天照大神が倭国の笠縫邑から遷座して来た際に豊受大神と一緒に祀られたという。天照皇大神は与佐宮に4年間鎮座後、約60年の歳月の間に25回の遷宮を行い、最終的に伊勢の五十鈴川の川上へ鎮座され今に至る。
その後、雄略
22年、伊勢内宮の「御饌つ神」として近くへ祀ってほしいと夢枕に天照大神が現れて言った為、丹後の比沼真名井原に座す豊受大神を伊勢外宮に遷座させたというが、籠神社(京都府宮津市)の奥の宮「真名井神社」から遷座させられたと一般にはされているし、こちらの方が有名です。しかし、本当は京都市福知山市の船岡山にある「元伊勢外宮豊受大神社」旧名・与佐宮)の方だと思う。
その理由は、
「この籠神社の関係者の証言によると、特殊な信仰形態をもった丹後一族を大和朝廷が治める為に、豊受大神を祀るしかなかったそうで、わざわざ御神体を伊勢に還った際にも、伊勢に渡ったと見せかけて、明治時代までは籠神社に、本物の神宝は保管されていたという事です。」(引用:『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』日本文芸社 月海千峰著 P57)という話があるのと、
「豊受大神は籠の中に入れられていた」という伝承があるからです。
つまり、
「籠の中=籠神社」なのです。
そして籠神社の周囲には浦島太郎伝説が多く、浦島太郎は亀に乗って竜宮城に行き、玉手箱を貰って戻ってきましたが、亀の甲羅はカゴメ紋と同じで「亀=籠」と解釈が出来る。これは御神体を運んだという伝承がおとぎ話となったのではないだろうか?
以上をまとめると、
御神体は福知山市の船岡山の豊受大神社にあって、外宮創設して遷座の話が出た時にレプリカを渡し、本物は籠神社に隠匿された。隠匿地は眞名井神社であり、これが真名井神社の碑が「六芒星(ダビデの星)」となっている理由。今は「三つ巴」に変えられていますが、この「三つ巴」は福知山市の豊受大神社の神紋と同じなのです。
この御神体は
「マナの壺」だと云われていますが、、確かにコレならな食物を用意する神として相応しい。しかし残念なことに明治時代の謎の出火が原因で行方不明となってしまったという。マナの壷は「カド族」が継承したと言われていますが、金首露王の初期大王家がこのカド族なので、日本にマナの壷があってもおかしなことではない。
しかし、なぜ
山代王朝(アイヌ縄文人)の丹波にあるのか?
語り部によると、「マナの壷」は扶余系の
初期大王族が日本招聘時に持ち込んで、最初の上陸地の伊勢湾の中ノ島の「尾張大国霊神社」に安置かれていたという。その後、初期大王家が邪馬台国(倭)を討伐して国を継承した事実を歴史隠蔽する為に丹波に伝承地を移したのですが、その際に丹波に遷座させたという。これが船岡山に豊受大神(マナの壷)降臨の真実であり、浦島太郎伝説の竜宮(中ノ島)からの玉手箱持ち帰りの逸話にもつながっていくのです。
つまり
「豊」とは食べ物を供える高杯、、、マナの壷のことを暗喩しているのではないか!?
この真名井神社への
隠匿が「籠の中に入れられ隠匿された」という伝承となり、有名な「カゴメの唄」の「籠の中の鳥」の歌詞に繋がっていくのだろう。
「籠の中の鳥」とは、、、、
「籠」…籠神社(真名井神社)
「鳥」…天女=豊受大神=マナの壷(ヤハウェの贈り物)と解釈が出来る。
で、いついつ出やるのだろうか?
そ、それは亀(初期大王家)と鶴(後期大王家)が統治(統べる)が終了したとき、、、すでに亀の時は終わっているので、鶴の終了のとき、、、それは「哀帝」となる次の天皇在位の時だな!!!
マナの壷の形は
仁徳天皇稜はじめ多くの前方後方墳として残っていますが、一般には逆から見た鍵穴形状として認知されている。これがグレンと逆になると、「仁徳」は「徳仁」となるのだす。語り部によれば、仁徳天皇陵の埋葬者は百済系の後期天皇家の始祖・倭武(百済コンキ・タケミカヅチ)だというが、それは地元に伝えられる伝承と同じ。鶴をトーテムにする百済系後期大王族は「哀帝・ナルちゃん」で予定終了となるが、もはや伊勢女がいうように「武田のミカ(→百済系)」では抑えられないのでしょう。この時。世の中がグレンとひっくり返って「マナの壷」が登場というわけですが、それが仁徳-徳仁の反転した名に隠されて、カゴメの「後ろの正面」という歌に隠されているのだろうか?

(マナの壷)
そして、マナの壷が
「豊」という漢字なのです。
つまり、「マナの壷=豊(とよ)」という暗号だった。だから、かつて古伊勢湾の中ノ島に保有していた愛知県や持ち込んで来た初期大王家が「豊」を好んで付けたのでしょう。
さてさて、
「トユケ」は日本列島にやって来た渡来人を受け入れに起因する言葉だと睨んでいますが、この渡来人は「渡り鳥」に例えられる。だから「鳥」なのでしょう。渡来人受け入れの事実が日本各地に存在する天女羽衣伝説。この伝説のある地が渡来人の上陸地です。羽衣伝説に共通してあるのが羽衣の「隠蔽」ですが、これにより天女は天に帰れなくなり、仕方なく土着化してしまっているのです。ですから、「トユケ」は「鳥」「トユラ」は「隠蔽」関係があるのかもしれないが、アイヌ語を探してもピッタリする言葉が今のところない(汗)。
※註 倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の言葉として、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。東三川にある
豊川稲荷の豊川という名称は律令制の宝飯郡「豊川郷」(現・豊川市)から付けられたのですが、この近くの一級河川の豊川(旧名・飽海川)の畔の豊川市行明には天女の羽衣伝説がある。また豊川市には「大天女宮」とよばれる出雲神社がありますが、ここの祭神は「出雲大天女宮命」で三河国造の大祖を祀る社。出雲(縄文人)と天女伝説の関連性を彷彿とさせます。また、豊川稲荷は荼吉尼天(ダキニ天)を祀っていますが、その姿は左手に如意宝珠または火焔宝珠を載せ、右手に剣をもち、白狐にまたがって空中を疾駆している天女なのです。しかもインドのダキニ天の姿とは全く変わってしまっている(笑)。

やはり、「豊(トヨ)」は
天女と関係していそうな気がする。
ちなみに、今NYヤンキース電撃移籍で話題の
狐顔のイチローは愛知県出身で豊川稲荷には今でも毎年お参りすることで有名ですが、今までの大出世は大岡越前と同じく豊川稲荷の霊験なのかもしれません(ニタリ)。
そして、外宮(豊受大神)の住所は三重県伊勢市
豊川町。また外宮の山から湧き出る水を唯一引くことができる田んぼは「豊川田」という。何故かここにも「豊川」があるのです。そしてこの豊川稲荷と伊勢神宮は中央構造線が直下に通って結ばれていて、何か非常に関連が深いと思えるのだが、、、
徐福国は
神仙思想(扶桑信仰)に憧れて渡来した邪馬台国と縄文人と共に三王朝(三輪)を形成していた時、縄文人邇波氏の三種神器「水晶・硯・鈴」のうち「鈴(銅鐸)」を譲り受け祀っていたというが、銅鐸の原型「鐸」は徐福(夷人)が日本列島に持ち込んだという。この辺の記述、どちらが先か語り部の内容に疑問符が付く。この銅鐸は徐福国の東海三神山に憧れる邪馬台国の苗族(長江出身の漢民族傍流)が装飾を織り込みさらに発展させたのでしょうか。
そして、問題の「豊」の読みですが、それは卑弥呼一族の「台与」から来ているのではないだろうか?
倭人伝には邪馬台国の卑弥呼が亡くなった後、弟王が立ち、再び国が乱れた為、卑弥呼の親族の13歳の台与(トヨ)を女王に立てたら国が治まったという記述があるが、これが倭旨(金首露王)が邪馬台国を継承して大倭とした際の内乱なのだろう。この騒乱を抑える切り札が台与。台与に比定できる人物の1人として「豊鍬入姫」がいるが、彼女の同母兄が豊城入彦。
語り部は
豊城入彦は尾張王朝始祖の倭得玉だといい、実際には「豊鍬入姫」とは兄妹ではなく、巫女制を導入して神祇氏族として出発した故に伝説の巫女・卑弥呼一族の台与に接続させただけの名目上の名前だという。
つまり、
伝説の少女巫女「台与(とよ)」という大名跡に肖(あやか)り、それに接続して神祇氏族としての正当性を謳う為に「豊(トヨ)」という美称をこれ見よがしに付けていったのでしょう。
想像を逞しくすれば、卑弥呼の後、内乱の続く国内を収めたのはこのマナの壷であり、それを人格化したのが「台与(とよ・豊)」ではないかと思うのです。
(伝説の少女「モモクロ」 そのフルスロットルで全力疾走する姿は妄想全力疾走の「煩悩フル」にも共通しているだす。伝説の少女巫女「台与(トヨ)」の名は名古屋に盗まれたのですが、それは曲中の「エビ反り」で名古屋を暗喩しているだす~。実際、「世界のモモクロNo.1」の掛け声も「世界の金シャチ横丁」で盗まれてしまっただす~)■名古屋城に「金シャチ横丁」構想 おかげ横丁モデルに
http://www.asahi.com/national/update/1116/NGY201111160008.htmlこれが
「豊国」の正体であり、その比定地は尾張・三河の愛知県であった。ですから東三河が豊国であっていいわけです。そして、倭明が上宮創設したのが豊国であった為に「新大倭豊王朝」と語り部はネーミング(造語)したのだろう。
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コメント
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2012/07/28 15:56 編集返信>>苗族(長江出身の漢民族傍流)
いやー、洗脳しようとしつこいこと。まあ、政治目的があるブログだとわかる人にはわかるから便利な面もあるけど、ここにコメント書くと性格が悪くなるからもう見に来るのをやめよう。
でも、閲覧者に注意喚起するためにたまにまた来るかもしれんが。
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2012/07/28 21:00 URL 編集返信-
2012/07/29 00:07 編集返信私の姓も「豊」の字が入ってるので興味深かったです。
でもまさか、台与タン&マナの壺がからむ姓だったとはねえ。
仮説としてもちょっと感激です。
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2012/07/29 10:27 URL 編集返信66.29
731
2012/07/31 01:17 URL 編集返信『マドモアゼル愛』さんのブログ見てください!
私達日本人は真面目に…もう笑ってる場合じゃない!
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2012/08/02 00:02 URL 編集返信ふーん、て感じ。
ふーん
2012/08/02 10:28 URL 編集返信-
2012/08/03 15:04 編集返信そら
2012/08/04 18:30 URL 編集返信豊中も何か深い意味が隠されてたりするんでしょうかね?
ごめんなさい、ただのつぶやきです^^;
なんか、豊っていう字ばかり見たので
ゲシュタルト崩壊起こしちゃいました@o@
じゃがぴん
2012/08/05 00:13 URL 編集返信小林朝夫
2012/08/05 17:21 URL 編集返信ジョン・T
2012/08/06 09:40 URL 編集返信