阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という言葉を聞いたことがありますか?
これは「悟り」のことです(笑)。
悟りを開いた人のことを「仏陀」とか「覚者」といいます。
実のところ、過去何千年かの間には、悟りを開いた人はたくさんいるのです。
ですから、「仏陀」とは釈迦だけを指すわけではないのですね。
悟りといっても、いろいろな段階があって、「あるがまま」という初段階の悟りから、虚無という心魂を破壊してしまう程の凄まじい段階を経た最終的な悟り「大悟」までがあります。
元来、仏教はこの悟りを開いて輪廻転生からの解脱を目指す哲学的宗教なのですが、その在家信者は現世利益の功徳を得られるよう拝んでいる有様です(笑)。
また、何十万という出家僧でさえ「大悟」にまで至る人は極々僅かです。これは例えていえば、東大に入学後、教授となり、最終的に学長になる以上に難関です(笑)。このような状況ですから、ヤッズ★のような凡夫が悟りを開こうなどという大それたことは最初から考えてもいません。ただ、そこから得られた知識を利用させて頂くだけで充分なのです。
そのように非常に狭き門である「大悟」ですが、東洋的知識のない西洋キリスト教環境の中で悟り、大悟の段階まで達した体験を詳細に手記にした本があります。『自己喪失の体験』 (The Experience of No-Self、1982年)という本がそれです。
著者であるバーナデット・ロバーツ(Bernadette Roberts カリフォルニア在住)は、敬虔なカトリック家庭に育ち、4人の子供を持つごくごく普通の主婦でした。彼女はヴェーダ哲学の用語を全く知らないため、ごく日常のありふれた言葉を使って、その大悟体験を書いている点がこの本の白眉なところです。

彼女の体験は、次のような順で深まっていきました。
■ワンネスの体験 (自己の客体化の停止)彼女がいつものように瞑想していると、自己の客体化が止まり、「究極の自己」と現実世界が合一したワンネスの境地を体験しました。この辺は、深い瞑想をすることで体験できる境地で、多くの人が体験していますね。歓喜が湧きあがってくる至福の状態です。
「常に主体のない意識状態にあり、客体と言えるものは、あらゆる存在が合一した『一なること』だけなのです。」
「私の感覚」「私の思考」「私の感情」のうように、「私の○○」と付くものは、「本当の自己」ではなく自己の付随物にしか過ぎません。この雑味成分ともいえるものを全て取り除いていくと、「究極の自己」だけが残ります。これは自分の中にある「観察する中心点」といえるようなものです。
削ぎ落としていくことで、もはや自己には比較する知識、基準すら無いために、ただ観察しているいう自己だけが残ります。つまり、これが「自己の客体化の停止」です。
ただ彼女の体験はここに留まらず、さらに深い境地へと進んでいったのです。
「この世の人、虫、花、全生物の肉体や全てのものは、単なる『器』にしか過ぎず、その器をすっぽり覆うように、ひとつの大きなエネルギー(神、愛、存在というべきもの)で満たされている。つまり、私そのものも『それ』であり、この宇宙のあらゆるところに充満している『それ』と繋がっている。」
この『それ』とは、私たち地上に生きる生物にとっての空気、魚などの海洋に生息する生物にとっての水、のようなものと考えるとイメージしやすいかもしれません。空気も水も生まれたときから包まれている為、全く気づかないのですが、間違いなく存在していますよね。
彼女は、そのようなイメージで『それ』を観たのです。
全ての生き物の肉体が「器」にしか見えないというのは、まるで「ゾンビ」のようにでも見えたのでしょうか?それにしても面白い表現です。
■虚無の通路 (自己の主体化の停止)その後、彼女は本当の自分である「究極の自己」すら喪失し、凍りつくような虚無を体験していきました。自己を喪失すれば、事物を「わたし」と「その他」と相対的に見る心も無くなり、後には『それ』だけが残ります。
ここでいう虚無とはいったいどういう状態なのでしょうか?
「主体も客体もない意識の状態で、知るものと知られるものとの関係は、絶対的な虚無に出会うという形でしか残っていないのです。通常の認識の道は閉ざされ、知られるものは意味をまったく剥奪された虚無的な外界だけなのです。」
「もし自己があれば、その場で狂ってしまうか、何とかして先へ行くのをやめて逃げ出そうとすることでしょう。普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとする者さえいないのです。」
成る程、こんな状態ならば、心魂が破壊されそうなほどの体験になりますね。唯一の救いは、破壊される自己がないことぐらいでしょうか。
こんな状態が4ヶ月も続き、その後、彼女は突然、虚無の向こう側にあるものを見たのです。
■絶対的真理 (元因世界)彼女は主体も客体もない虚無を体験することで、希望と信頼を奪われましたが、究極の実在なしに生きることにも慣れ、もはやこの状況を受け入れる他ないと悟った時、突然、「それ」が真理であり全てであるということが分かったと語っています。
これは正に、ヴェーダ哲学でいうところの「梵我一如」の境地です。宇宙の最高原理であるブラフマン(梵天)と真実の自己であるアートマン(真我)は同じものであることを、彼女はここで体験したのです。
で、その体験を次のように表現しています。
「私の場合この示現は、ごく単純な微笑として現れたのです。それは『微笑そのもの』、『微笑するもの』、『微笑が向けられるもの』、この三つがすべて同一である『微笑』でした。この三つのものが一つになっているのを見たと言っても、そこに内省が働いているのではなく、外部の何かに注目したわけでもなく、目がその目自身を見るかのように、その一つになったものを見たのです。」
何かどこかで聞いたことのあるような内容だなぁ思っていたら、『神との対話』にこのように説明されていました。
「絶対的な世界は、『聖なる三分法』が支配する世界だ。『ここ』と『あそこ』と『その間』というように3つのものが、絡み合い循環している。」
「現実世界(物質界)や霊界、幽界等の高次の世界は、実現速度、粗密度、波動が異なるだけの相対的な世界であり、それらは全て絶対的な世界の「不安」「愛」の二極性から作られています。」
ですから、彼女の一連の体験は、この相対世界から順次、高次の世界に上昇して行き、ついには絶対世界へと到達した体験だと考えられます。つまり、「大悟」というのは「相対世界」からの離脱現象といってよさそうです。確かに、相対世界から抜け出せば、輪廻転生からも自由になれますよね。
最後に、凍りつくような虚無を体験した彼女はこう結論付けます。
「自己があるということは、どんな状況下においても何より大きな補償となるのもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償にほかならないというのが、今の私の確信です。」
つまり、自己は認識の足場というわけですね。
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コメント
レインボーマンが真っ先に思い浮かんだ私って…(^^;
ヒロリン
2006/11/07 23:26 URL 編集返信その瞑想のいきつく先は、まさに今日ヤッズ★さんが書いてくれた事なのだろうな~と思いました。
いつか私にも、知識ではなく、体験がやってくるのでしょうか???
瞑想の先生の話しでは・・・
昔は、ヒマラヤの山奥に篭ったり、何十日間も断食をしたりして、聴覚や、味覚などの、感覚を閉じ、潜在意識の中へと入り、悟りの道へ近づこうと、多くの聖者達が試みたものだが、今は何もヒマラヤに篭らなくても、瞑想をする事により、誰でも同じような体験ができるそうです。
そして、瞑想さえも、ツールにすぎず、瞑想はするものではなく、練習するものだそうです。瞑想が100%完璧にできる人は、もう人間として生きている意味がない!と先生は言ってました(笑)
らんぎっとびる
2006/11/07 23:53 URL 編集返信ズバリ、改造人間でしょう!(爆)
それにしても、ヒロリンさんからレインボーマンを聞けるとは!
ヒロリンさんの正体って、いったい.....
ますます、深まるヒロリン・ミステリーです。(つづく)
ヤッズ★
2006/11/08 00:34 URL 編集返信そうです。らんぎっとさんは、「仏陀」になられるんですよ。
そして、本を書きます。題名は、「らんぎっと仏陀の なすがままに生きる!」
その時は、是非、推薦文を書かせてください(笑)。
>今は何もヒマラヤに篭らなくても、瞑想をする事により、誰でも同じような体験ができるそうです。
それだけ、現代人の意識レベルが向上したってことでしょうか!
>瞑想はするものではなく、練習するものだそうです。
これは目から鱗です!人間の完結点である完全瞑想状態に戻るためのリハビリみたいなものだという意味ですね(推測)。
>瞑想が100%完璧にできる人は、もう人間として生きている意味がない!
神に向かう体験を愉しむことが、人として生きる意味とすれば、確かに、完全瞑想は「常に神と一緒にいる神人合一・至福意識」なので、もはや「人でなし」状態ですね(笑)。
いやーぁ、いい話いっぱい聞きました。本当にありがとうございます。
ヤッズ★
2006/11/08 01:17 URL 編集返信悟りを得て輪廻転生のカルマから解き放たれニルヴァーナ
へいくという思想は少しショックでした。
私なんかは、この次生まれ変わったら~とかよく考えてました
から(笑)厳しい身分階級制度があり最下層に生まれてくると
どうあがいても這い上がれないインドならではでしょうか。
しかし、敬虔なクリスチャンでありながら大悟を得た女性の体験とは
すごいですね。映画か小説のようです。大悟といっても想像を絶する
世界の末にあるということで、やはり凡人には無理でしょう(笑)
ワンネスの境地くらいは味わってみたいと思いました。
ふくすけ
2006/11/09 19:47 URL 編集返信ヤッズ★もそうです(笑)。
で、本当に20才の時、1ヶ月インドに行ってしまいました。
あと、本場のカレーを食べたい一心で(笑)
>厳しい身分階級制度があり最下層に生まれてくると
>どうあがいても這い上がれないインドならではでしょうか。
本当の精神的指導者はインドからしかでないと言われるのは、
カースト制と極端な貧富の差があってこそでしょう。
この人為的社会的カルマを考えざるを得ない環境に
無理矢理置かれますからね。
「人生とは?」「人間とは?」「社会とは?」「貧富とは?」「美醜とは?」...等
どんなに感受性が鈍い人(=ヤッズ★)でも考えてしまいますよ。
>ワンネスの境地くらいは味わってみたいと思いました。
ヤッズ★は、もう少し上のゾンビの世界までは行きたいです(笑)
ヤッズ★
2006/11/09 20:59 URL 編集返信いつもお邪魔しています。
いつもとても楽しい記事を読ませていただいて、感謝です。
毎朝瞑想をしていますが、真我の探求はなかなか思うようにいかないものですね。
ブログでご紹介させていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
またお邪魔します。
うたこ
2006/11/10 20:29 URL 編集返信>毎朝瞑想をしていますが、真我の探求はなかなか思うようにいかないものですね。
うたこさんの瞑想の方法がどうか知りませんが、
一般に瞑想は内へ内へ、禅は外へ外へ意識を持っていくようですね。
うまくいかないときは、反対側をやってみるのも手だと思います。
これぞ、タイタス・コンセプトです(笑)。
>ブログでご紹介させていただきました。
ありがとうございま~す♪
拙者の拙い文章で恥ずかしいのですが、とても嬉しく思います。
こちらもお邪魔したいと思いますので、早速、リンクさせていただきました。
今後とも、宜しくお願いいたします。
ヤッズ★
2006/11/10 23:49 URL 編集返信